로그인「よう相棒、二時間ぶりくらいか?」
隣町のニースまで買い物に行くという家族と別れた後、待ち合わせ場所のヌール広場に到着したエルキュールに、声がかけられた。
広場の長椅子の背もたれに寄りかかっていた身体を起こし、グレンはエルキュールに歩み寄る。
「相棒……? 俺と君はそこまで親密な仲だったか?」
出会って間もないはずだが過剰に親しげに声をかけたグレンに、エルキュールは余所行きの固い態度で返す。
「とはいってもなあ……こっちはまだお前の名前を知らねえんだ。オレがせっかく名乗ってやったのに……つれない奴だ」
「……エルキュールだ。確かに名乗らなかったのはこちらが悪かった、謝ろう。ところで魔獣を狩るという話だが、具体的にどこに行くんだ?」
自分だけ名乗っていなかったのは礼節に欠けていた。自身の非礼を詫びつつエルキュールは話を進める。
「ああ、そうだな。そんなに遠出するつもりはないぞ。んー、あっちのほうに少し行った原っぱなんかどうだ?」
グレンが指さした方向は、エルキュールが朝の日課として魔獣を狩っている北ヌール平原の方角だった。
「わかった。それなら早速行こう」
我先に歩き出したエルキュールを見て、グレンも彼に並ぶように歩いた。
「そう言えば、少し聞きたいことがあるんだが……どうして俺に声をかけたんだ?」
道すがら、エルキュールを隣を歩くグレンに尋ねる。いつもなら人に自分から会話を振ることなどないのだが、今日のこれまでの出来事を経て、もう少し人と関わってみようとエルキュールは考えていた。
「ハハハ……知りたいか? そりゃ、気になるよなあ? どうして自分が選ばれたのか……何か隠された意図、壮大な陰謀があるんじゃないかってな」
エルキュールにとっては当たり障りのない会話のはずだったが、グレンは回りくどい言い回しで話を大きくする。いちいち狂言を挟まないと会話ができないのか。
「別にそこまでは言ってないが」
「お前の気持ちは分かってる、みなまで言うな。教えてやろう、お前に声をかけた理由はな――」
エルキュールの言葉を無視して、一瞬間を置いてグレンはにやりと笑う。勿体ぶった彼の態度に、そこまで壮大な理由があるのか、エルキュールは彼の続きの言葉に耳を傾ける。
「初めて見たときに感じたんだ、お前こそがオレの相棒にふさわしいってな……これが一目惚れってことか……」
どこかの貴族も似たような理由でアヤに声をかけていた気がする。今日は常識に欠けている人と縁がある日なのか、それとも人間とは一般にこんなものなのか、エルキュールは頭を抱えた。
「はあ……つまり、大した理由なんてなく、ただの勘だということか」
気持ち悪い言い方ではあったが、とどのつまりはそういうことだろう。言及する気も失せるが、相棒の設定もまだ引きずっているようだった。
鈍感なエルキュールでも、グレンが本気で言っていないことに気づき前に向き直る。
「つーか、お前の方こそなんでオレの頼みを簡単に引き受けたんだ? 普通、知らねえ奴にいきなり声をかけられたら気味悪いと思うだろ」自分のことを棚に上げてグレンはエルキュールに尋ねた。一方的に探られるのは不公平だと感じたが、エルキュールは諦めたように息をつく。
「――今日は人との縁を大事にしようという気分だったというのと、個人的に調べたいことがあったから、そのついでに引き受けたんだ。特段深い理由はないが……それとも、君は俺を騙しているのか?」
「へぇ……? 随分とお人好しだな。だがまあ、安心しろ、別に騙してはないぜ」
見定めるような視線を送りながらグレンは不適に笑う。この男は自分が頼みを聞いてもらっている側の人間であることを自覚しているのだろうか、エルキュールの口から本日幾度目かの溜息がこぼれた。
そのまま歩き続け街の入り口にそびえたつ門の前が視界に入ったところで、それまで余裕綽々だったグレンの足が不意に止まった。
不審に思ったエルキュールは彼のほうを見やる。「……どうかしたのか? まさか、あれだけ余裕ぶっていたのにここに来て怖気づいたのか?」
グレンの軽口を真似てみて、エルキュールが尋ねる。このいい加減な男には、これくらいが丁度いい。
「……あー、そうだな、すこーしばかり怖くなってきたぜ……ちょっと回り道して行くかぁ……?」
グレンは目線を門のほうから逸らし、おどけた調子で提案した。
だが、その提案に大人しく乗るつもりはエルキュールにはなかった。彼が視線を逸らす直前、門の前に立つ騎士を見つめていたのを、見逃さなかったからだ。見たところ外の魔獣を警戒のためのヌールの駐留騎士だが――
「……もしかして、騎士が気になるのか?」
エルキュールの直球な言葉に、グレンは驚きの表情を浮かべた。
「あー……分かっちまったか。鋭いねぇ、相棒」
オルレーヌにおいて騎士の存在は目新しいものでもない。王都から離れているヌールではその数は多くはないが、特に気にすることではないだろう。
「騎士に過敏に反応するということは……やはり、君は俺を騙そうとしている悪人だったのか?」
あくまでもおどけた調子で返すグレンを、エルキュールは目を細めて訝しむ。グレンについては旅をしていることぐらいしか聞かされていない上、こちらを煙に巻こうとするきらいがあることは短い間でも理解できた。
それの上、騎士に対してのこの態度。流石に追及せざるを得ない。「もしそうなら、このまま君を騎士に突き出さないといけなくなるな」
畳みかけるエルキュールに、グレンは大きく溜息をつき――
「……別にそんなんじゃねぇよ。ただ、個人的に騎士の連中が気に入らないだけだ」
そうぶっきらぼうに答えた。そんな彼の目は騎士に向けられているように見えるが、どこか遠いところを見つめているようにも見えた。
「まあ、なんてことはない。行こうぜ」
暗い雰囲気を消し、いつもの調子に戻したグレンは堂々と先へ進む。
何か騎士に思うところでもあるのだろうか、エルキュールは思案しながら彼の後を追った。
「やあ、そこのお二人さん。この街の外に何か用かな?」
門に近づくとこちらに気づいた騎士が声をかけた。今朝の魔獣情報によると、この先にも当然魔獣が大量発生しているだろう。今朝にエルキュールが幾体か狩ったとはいえ、その脅威は変わらない。
「通常なら魔除けの道具があれば、一般人も自由に通行させるのだが……今朝の報道は見ただろう? すまないが、魔獣が大量発生しているから一般人のみの通行は認められないんだ。……最近は騎士の多くが王都の方に戻ってしまってね、手が足りないんだ」
騎士の当然の対応を前に、エルキュールは身を固くした。いつもは騎士の目につかない時間帯を狙って街の外に出ていたため失念していたが、本来魔獣と接触する可能性が高い場合は、魔獣と戦えることの証明が必要なのだ。
アヤの持っている魔法学校の記章もこれに該当するのだが、生憎エルキュールはいずれも所持していなかった。どうしたものかとエルキュールが思案している姿を見て、グレンは彼を怪訝な表情で見ながらも、騎士のほうに近づいて懐から黄金の意匠があしらわれた記章を取り出した。
――オルレーヌで発行されている魔法士の記章である。
「ふむ、君は魔法士か。そちらのグレーの髪の彼は君の連れかい?」
「ああ、そんな感じだ。魔法士なら通っても構わねえだろ?」
取り出した記章を戻しながら、グレンは騎士に確認する。
「結構。とはいえ脅威は依然として変わらない。連れの安全には十分に気を配ったほうがいい」
騎士の忠告の言葉に「もちろん、そのつもりだぜ」と軽く流し、グレンは門の外に歩き出し――
「早く来いよ、置いていくぞー」
立ち尽くしていたエルキュールにそう呼びかけた。
「お前、魔法士の資格を持っていなかったのか?」門を出てから少し歩いたところで、グレンは後ろをついてきていたエルキュールに尋ねた。その表情は心底意外だと思っているようだった。
「まあ、そんな驚いたような顔をされても、俺は一言もそんなこと口にしていない」
なぜエルキュールが魔法士であることを前提に話が進んでいるのか、疑問ではあった。確かにエルキュールは魔法を使えることも魔獣と戦うこともできるが、魔法士の資格をとってはいなかった。
魔法士に限らず、その上位資格である魔術師や魔法技師など魔物が発生する地域への出入りが許される資格はいくつか存在するが、それらの取得には筆記や実技の試験や魔力や身体能力を測るための身体検査といったことが必要だ。そんなこと、魔人であるエルキュールには無理なことである。
試験では武術や魔法などを含めた戦闘力と魔法に対する知識を評価するが、これはエルキュールにとって然したる問題ではない。このヌールで暮らす間、魔物を狩り続けたことでエルキュールの戦闘力は一般的な騎士と比べても高いといえる。魔法の知識も魔法書を読んでいた経験から、試験を突破できる水準にあるだろう。
ところが、身体能力の検査だけは話は別だった。そんなものを受けたが最後、エルキュールが魔人であることが明るみに出て、この国に住むことができなくなってしまうだろう。しかしそれ以前に、そもそもエルキュールが魔獣と戦えることをグレンは知らないはずであるが――
「は? でも、お前毎朝魔獣を狩って……」
そこまで言いかけて、グレンはしまったという顔をして口を閉ざした。エルキュールの疑問は瞬く間に解決され、やがてある確信に至った。
「……そうか、君は俺のことを以前から知っていて声をかけた、そういうことだな?」
どの程度グレンが知っているのかは分からないが、そう考えれば彼の先ほどの発言も、エルキュールに声をかけた理由も説明できる。
人目につかない時間帯を狙っていたにもかかわらず、ばっちり目撃されていたらしい。その表情に警戒の色を滲ませながら、エルキュールはグレンの説明を求めた。
「……やれやれ、オレとしたことがこんなミスを……」
グレンはエルキュールの言葉に大仰に天を仰ぎ――
「お前の言うとおりだぜ。確かにオレは以前からお前のことを知っていた」
先刻のエルキュールの発言に肯定し、それまでの経緯を語り始めた。
「……つまり、一週間前にヌールに始めて来た夜、旅の疲れを癒すため酒場で朝まで酒を飲んでいたら、その酒場の窓から俺が武器を持って街の外に行くのが見えたと」
「ああ」
「こんな朝からどこに行くのか気になったから、酒瓶を片手に後をつけてみたものの、酩酊して頭が働かないうえ慣れない場所で迷子になったと」
「そうだ」
「……そのままふらふら酔っぱらっていたところを騎士に駐留所へ連行され、きついお叱りを受けたと」
「……あー……まあ、そうだな……」
「そこでちらっと聞いた話では、ここ最近報告にあった魔獣が、知らぬ間に討伐されていることがあるらしい。それはもしかしてあの時見た男の仕業だろうか、俺に興味を持った君はその後も酒場で酒を飲みながら張り込み調査し、やがて俺と出会うに至った……こういうことか?」
「おお、その通りだ、要約お疲れさん」
グレンは無駄に長い彼の話をまとめて整理したエルキュールに対して、ねぎらいの言葉を贈った。
「事情は分かった。けど、君は随分酒が好きなんだな……お金が尽きたというのも単に君が後先考えずに飲んでいたからだったんじゃないか?」
「ハハ、面目ない。だが、もう心配する必要はないぜ。あの時、騎士の連中にこっぴどく叱られてからオレは学んだ……何事も節度が大事だよな?」
エルキュールに指摘されたグレンは、反省しているのかはっきりしない笑顔で答えた。
ひょっとしたら、騎士が嫌いと言っていたのもそれが原因なのかもしれない。つくづくいい加減な男だと、エルキュールは唖然とした。「それに、俺のことを最初から知っていたのなら、どうしてそれを隠してふざけた態度をとっていたんだ?」
ヌール広場にて、グレンは会話するのが億劫になる話し方で、エルキュールに接近してきた。
初めからさっきのように説明してくれれば、とエルキュールは恨めしげにグレンを見つめる。「ふざけていた場合じゃあねえが……まあ、なんつーか……ぶっちゃけて言うとお前に声をかけたのは興味だけじゃなくて、お前のことを警戒してたからってのもある」
「……警戒?」
勝手に興味を持たれていただけでなく、警戒もされていたらしい。エルキュールは思わぬ言葉に目を丸くした。
「ああ。日が昇る前に武器を持って街を出る黒づくめ男……怪しさ満点だろ」
「……言われてみれば、確かに」
今まで考えたことなかったが、グレンの言う通り自分のことを客観視すると、エルキュールは自分がいかに怪しい存在であったかを悟った。
この服装は魔人であることを悟られないためのものだが、このような疑いを招くのならこの服装も考えものだ。「だろ? だからもしお前が悪人だったときは、都合よく魔獣狩りを手伝ってもらった後騎士に突き出そうかと思ってな。それにただの悪党ならまだしも、最近はアマルティアの存在もあるしな」
「……なるほど。魔法士の資格を持つほどの君が、わざわざ俺に手伝ってもらおうとしたのは、そういう狙いもあったのか」
グレンに疑われていたことに納得がいっていない様子ではあるが、エルキュールはひとまずその理由を認めた。
「君は俺のことをお人好しだと評したが、そっちも大概だな。ただの旅人であるにもかかわらず、わざわざ疑わしいものを監視し、あわよくば捕らえようとするなんて」
少なからず自分に敵意を向けていたことを咎めることもなく、エルキュールは純粋にグレンの行動に感心した。また、彼もアマルティアを警戒しているという情報に、妙な親近感を覚えたというのある。
しかし、エルキュールの賞賛に、グレンは居心地悪そうにその赤い髪を掻いた。
「それは……違いねえな。……ったく、こういうのは卒業したってのに」
「……?」
後半の部分は小声であったためよく聞き取ることはできなかったが、ようやくもっともらしい理由が聞けたので、エルキュールはそれ以上の追及を止めた。
「……さてと、オレのことはもういいけどよ……結局のところ、お前は何で資格を取らずに魔獣を狩っているんだ?」
グレンはその話題から逃げるように話を最初に戻した。彼の目は「次はお前の番だ」と語っているようである。
彼の言葉にエルキュールはその表情を硬いものに変えた。
このことはエルキュールの秘密にかかわるため正直にすべてを話すわけにはいかないが、全く説明をしないで乗り切るには、彼のしていることは珍妙すぎた。
資格を取れば様々な便宜が図られる。先ほどのように騎士に通行を止められることもない。国や地域から魔獣関連の依頼を受けることができ、それを頼りに生活することもできるが――
「魔物との接触は常にリスクが付きまとう。オレたちリーベは魔物に汚染されると自身も魔物になっちまう、それは知っているだろ?」
魔物が持つ汚染能力。それこそがリーベ、とりわけ人間が魔物を忌み嫌い排除する最大の理由である。
仕組みは詳しく解明されていないが、彼らの魔素に長時間曝され続けたり、物理的な攻撃によって致命傷を受けてしまうと、リーベは魔物へと変貌してしまう。 そうして他の生物を汚染し、同種へと変えることで魔物はその数を増加させているのだ。どれほど強い力を持っていたとしても、リーベである以上この摂理に抗うことはできない。
よって、資格があるならまだしも、一般人が魔獣と相対するということは金稼ぎ目的だとしても、非常によくない行いだといえる。「……魔獣を狩っているのは、彼らを放置しておくと脅威になるからだ。今朝の報道でも触れていたし、君が先ほど言ったようにアマルティアの存在もある。いつ魔獣がこの街を襲ってくるのか分からないだろう? ……もう二度と彼女たちに迷惑をかけないためにも、この街の安寧は保っておきたいんだ」
エルキュールはその瞳の裏にかつての情景を浮かべながら言葉を連ねていく。
「資格を持っていないのは、単に必要ないから取っていないだけだ。俺はただ、この街が安全ならそれでいいんだ……それ以外は求めていない」
今朝は思わぬところで報酬を受け取ってしまったが、家族と暮らすこの地を守りたい――それがエルキュールの紛れもない本心であった。
「……ほーう、ただ守りたいから、ねぇ……打算もなくただ誰かのために魔獣と戦う奴がいるとはなぁ」
「そんなにおかしい理由か?」
「……ハハ、いや、ちっともおかしくなんてねぇよ。立派だと思うぜ、オレは」
エルキュールの純粋な目に、グレンの表情も和らいだ。そう語る彼はどこか懐かしいものを見るようであった。
「あと、悪かったないろいろと。疑ったりこれまでの態度も含めてな」
それからグレンは表情を真剣なものに変え、エルキュールに自身の非礼を詫びた。
「別に、そういうことには慣れているから気にしなくていい。それより、ここまで行動を共にして俺の疑いは晴れたのか?」
「それはもう、完全にな。……お前は悪事を働くには向いてない奴だ、バカみてえに素直だしな」
グレンは表情を一転させて笑う。こちらに媚びるようなものでも、貼り付けたものでもない、心からの笑みであった。
「馬鹿みたい、というのは誉め言葉として相応しくないと思うが……うん、ありがとう」
誉めているのか貶しているのか分からないが、エルキュールはとりあえず礼を述べた。一応、自身のことを信じてくれたということだろう。
一方、そんな彼の言葉にグレンは目を丸くして、おかしそうに笑った。
「……クク、ハハハハ! そういうとこだぜ、全く、ハハハ!」
「……もういい。一人で盛り上がっているところ悪いが、話はここまでにしよう。時間は限られているんだ、そろそろ出発しないと」
ようやくからかわれている事に気づいたエルキュールは話を切り上げた。
すっかり話し込んでしまったが、こんなことを家族以外の他人に話したのはこれが初めての事だった。思わず高揚した気分を隠すように、エルキュールは先を行く。
「おーい、待てよ、エルキュール! オレという主役がいないと始まらねぇだろ?」
エルキュールのすぐ後ろをグレンが追う。遠かった二人の距離が少し縮まったようだった。
光の魔術師、ジェナ・パレットとの邂逅。アマルティアの魔人ミルドレッドが引き起こしたとされる魔獣の一件。そしてそれに巻き込まれる形となった、カイル・クラークの失踪事件から四日が経過したその日、アルトニーの詰所に一本の魔動通信が入ってきた。 差出人はロベール・オスマン。このオルレーヌ全国に配置された騎士各員の頂点に立つ選りすぐりの猛者その人である。齢五十に差し掛かろうとは思えない精悍な顔つきと鍛え抜かれた岩のような肉体。毅然とした態度で部下を指揮するその姿に部下からの信頼は厚く、密かに熱狂的なファンもついているという噂だ。 だが、傑物とすら謳われるその御仁からの直々の連絡、その内容というのは誰もが思いもしないものであった。『エルキュール・ラングレーという青年と話がしたい』 取次ぎに来たカーティス隊長からそんな伝言を受けたとき、月並みな表現にはなるがエルキュールは心底驚いていた。 王都に向かおうと準備を進めていた只中の連絡であるのもそうだが、そんな時宜に適った偶然性だけではない。 片や全国の騎士を束ねる大人物。片や人の目を避けながら生活する、表向きは単なる平凡な青年。 圧倒的な立場の違い。その中にいる両者に接点が生じるなど微塵にも考えていなかったというのが主たる理由だった。 しかもこの通信は公的な理由ではなく、あくまでもロベールの個人的な用件のために行われたのだという。 焦らずにはいられなかった。 ただでさえ最近は魔人である身でありながら、堂々と動きすぎたと反省していたところだったのだ。 その正体が明るみになってしまったのではないかと思うと、気が気ではなかった。 通信機を持つエルキュールの手は震え、体内の魔素が嫌に活発になっているのを感じていた。 だがそれを表に出すほどエルキュールも柔ではない。大事なのは平静を装うこと。十年に及ぶ生活で培った図太さを十全に発揮して、ロベールとの通話に臨んだ。「……はい、エルキュールですが」「ああ。お初にお目にかかる、オルレーヌ騎士団団長のロベール・オスマンだ……済まないね、突然無理を言ってしまって。しかし、どうしても君に話しておかなければならないことがあってな」 低く、微かに濁りが混じった声色。しかし、決して老いぼれているという印象はなく、どちらかと言えばくすんだ銀のような渋く、味わい深いものであると感
彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐ
カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。 最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。 会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。 何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。 まるで意識に靄がかかってしまったかのような酩酊感の中。時間が過ぎゆく感覚すらも忘れ、気付けばエルキュールは暗くなった室内でベッドに寝転がっていた。 隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。 それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。 光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。 アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。 疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。 欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。「……あ」 そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。 もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり
会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。ある
アルトニーの森を脱したエルキュールとジェナが騎士団詰所に帰還したのは、もうすっかり陽が落ちてしまった頃であった。 詰所に先に逃げ延びていたグレンとカイル、未だ帰ってこないジェナたちを心配するクラーク一家は、二人の無事に大いに喜んだ。 クラーク夫妻は腰を痛めるのではないかと心配するほどエルキュールらに頭を下げていたし、ずっと不安と緊張を抱えていただろうサラは大声で泣きだす始末。事件の渦中にいたカイルは自分のした行いを猛省し、そんな妹に申し訳なさそうに何度も謝っていた。 それぞれが思い思いに感情を爆発させる様に、エルキュールはもちろんのことジェナやグレンも若干押され気味だった。 それに追い打ちをかけるが如く、遠くから騒ぎを駆け付けた騎士連中までもがその人の渦の中になだれ込んできた。 一兵卒の過失によるこの事件に責任を感じていたアルトニー騎士たち。もちろん全員ではないがカーティス隊長を筆頭に数人が集い、事件解決に動いてくれたエルキュール、グレン、ジェナの三名に丁寧な陳謝と賞賛を送った。 ここまで事が大きくなるとは思っていなかったエルキュールは、正直いって多くの人間に囲まれるというこの状況から逃げ出したくあったのだが。 彼の弱気に目聡く気付いたジェナとグレンによってそれも阻まれ、むしろかえって二人からの揶揄いを受けることになったのだった。 詰所内はまるで祭りでも催されているのかという程の賑わいを見せていたのだが、やはり勢いというのは時が立てば落ち着くもので、次第にそのほとぼりも冷めていった。 先ほどエルキュールらにお礼を述べてきた騎士などは、この時間になってもなお仕事に追われているらしく、早々とそれぞれ持ち場に戻っていった。 この街が抱えている問題は依然としてあることを再認識させられるが、とにかくこれからの展望について語るのなら、今が絶好の機会だろう。 疲弊した精神を癒すべく、集団から離れていたところで暫しの休憩していたエルキュールは、場の空気が落ち着いていくのを感じながら決意した。 王都へ至る道にグレンのほかにジェナが加わった。まずはそのことを知らせようと赤髪の彼を探す。 こういう時、背の高さは素晴らしいものだなと思う。部屋の隅の方でカーティス隊長と話しているグレンの姿を容易に確認できた。「そういえば、グレンの家はあのブラッドフォードだったな
「分かりやすいように、君が話してくれたことと照らし合わせて話すとしようか」 これから話すことの全容を知っているのは、エルキュール自身を除けばもはやグレンくらいしかいないだろう。あまり自分のことは周囲に語らないように心掛けてきたので、いざ核心に迫る部分を自ら曝け出すとなると緊張が抑えられなかった。「まず、そうだな。君が言っていたという黒づくめの男だが……あれは恐らく俺のことだ」「ん? え……? えぇぇええー!!?」 ジェナの叫びが木々を突き抜けこだまする。確かに今のは突拍子もない発言だった。訂正し、順序だてて補足する。「その、俺は元々家族とヌールの方に住んでいたんだ。そこで魔獣を狩り、そこから採れた素材を家計の足しにしていた。君が聞いたのは恐らくそのことだろう」「あー、そっか。確かにそうかもしれないけど……って、え? ヌールに住んでいたってことは――」 過去形の表現。もしくはそうでなくてもエルキュールが言ったことがどういう意味を持つか、ジェナには容易に知れたかもしれない。「……あの事件の日。魔獣の大量発生の知らせを受け、念のために俺はある組織について調べてみることにしたんだ」「アマルティア、だね」「そう。結果としてヌール近辺の平原で彼らの痕跡を見つけたが、それは意味を為さなかった。陽動にまんまと嵌り、何とか追いついたころには、彼らが魔獣を操って街を攻撃し始めた後だった」 感情の色を乗せず、淡々と語る。本題でもないところなのでさっさと流したいという思惑からだったのだが、聞いているジェナの表情は悲痛に溢れていた。 とはいえ既に飲み込んだこと。要らぬ感傷を与えないように、言葉を矢継ぎ早に繰り出す。「動機は不明だが、アマルティアは人間を汚染する他にも、俺という存在を仲間に引き入れたかったようだった。そんな勝手な都合のために、不幸にも無関係だったヌールの街が巻き込まれた」「……まるであなたにも非があるみたいな言い方だね」 それは実際そうだろうと、言いかけた口を噤む。ジェナは責めているのではなく、暗にそれを否定しているからだろうというのが理解できたからだ。自身がどう捉えるかは勝手だが、その健気な思いは無下にはしたくなかった。「それはどうだろうな。けど俺は、俺の大切なものを傷つけたアマルティアを許せなかったし、無力な自分にも嫌気がさした。だから一人
振り返ったところに、人影。 驚愕を仕舞いこんで、落ち着いて観察する。 背はエルキュールよりもやや高いほど。こげ茶の軽装の上からもはっきりと分かる筋肉は、鍛え抜かれた逞しさを遺憾なく主張している。 視線を上へ。燃えるような赤髪は無造作な伸びていて、火花が散っているかのように見えた。 日に焼けた肌も、彫りの深い顔も、オルレーヌでは珍しい。親しみやすさを感じる笑みを顔に貼り付けてはいるが、総合的に判断すると、途轍もなく怪しいものだった。 なおも注意深く視線を向けるエルキュールに、青年は肩をすくめた。「そんなに見つめるなよ。……もしかして惚れたか?」「失礼。そういった趣味は持っていな
「はあっ!」 鋭い掛け声とともに、エルキュールはハルバードを横に薙ぎ払う。 振るわれた刃は目前の獣型イブリス――魔獣に命中し、不快な音を奏でながら敵を吹き飛ばす。 この辺り一帯に広く生息する狼型は、ヴェルトモンドでも一般的な魔物の種であった。 リーベの狼よりも一回り大きい体躯。 禍々しい紫色の毛並みは逆立ち、犬歯は肥大化して赤く変色している。 全身を以て醜悪の二文字を惜しみなく表現した様子は、まさに魔獣と呼ばれて忌み嫌われるも納得の姿形であった。 その上で。彼奴らを魔獣たらしめる最大の要素は、これとは別のところに存在していた。 手足の先、身体の一部分。所々がリーベとは異なり、
「……あれから八年か……」 幾度となく繰り返し読んだ単行本を両手に持つエルキュールの眼が滑る。 なにも質素な自室の窓から朝の到来を告げる、小鳥のさえずりのせいだけではないだろう。 それは追憶だった。 エルキュールにとっての原初の記憶、忌み嫌うべき記憶のせいだった。 本を両手でぱたりと閉じると、エルキュールはやや上を見上げてゆっくりと目を閉じた。 中断させられた読書を再開する気もなく、ただそうして、エルキュールはいつものように心を落ち着けた。「――というか、そろそろ出る時間だったな」 ゆっくりと目を開けて思い出す。 窓から見上げれば小鳥の便りにするこもなく、遠くの空が白んでい
名もなき丘の上。 平時なら静寂に包まれているはずの彼の地は、その夜、溢れかえるほどの人々で埋めつくされていた。 たとえばそれは、泣き叫ぶ幼子。 あるいは、子を宥める親。 身を震わせ叫ぶ者たちもいた。 反応はそれぞれ異なるが、確かなのは、誰も彼もが一様に悲嘆に明け暮れ、丘の麓で盛る劫火に、果てしのない喪失を重ねていたこと。 この者どもが住んでいた村は、僅か一晩の内に救いようもなく決定的に破壊された。 彼らにとっては最も忌み嫌うべき宿敵によって。「――――」 そんな凄惨たる状況の中で一人。 人々から少し離れたところで佇む青年だけが悲哀と無縁であった。 飾らない灰色の髪に、







